2016年5月26日木曜日

Dくんからの電話(2)

「そういえるかもしれない」
 土地が今までとは全く違ったところになっている。木を。家を、田畑を、人をも飲みこんで、流れを変えて景色も変えて、とうとうと流れ下る川は美しく、以前からそこにあった川として、静かに流れているという。災害は自然の営みである。
 「人はどうしているの?どんな感じ」
 「失っていくという感じ」
といって、炊き出しが止めになり、今は、お弁当が配られるようになったことを話してくれた。
 「炊き出しが止めになって(どうやら食中毒の危険からか)から、だんだん笑うことも少なくなってきたみたい。おにぎりをひとり2つずつ配ることになって、貰いに来たおっさんがひとりで4つも5つも持って行って腹減っているのか…」
 荒廃してきているのかもしれない。
 「今現地で必要な物は何?」
 「笑いやね。みんなで一緒にご飯作って食って笑えたら、元気出ると思うわ」
 「炊き出し、またやろ!私はあなたのことも心配しているよ。また様子を知らせて。こっちからできることも」
 揺れる度に傾きを増す家。終いには倒れてしまう家を目の当たりにして、雨から家財を守るためにビニルシートで覆いをして守り、揺れの合間に中のものを持ち出す。しかし、持ち出したものを避難させる先がない。無念、徒労、口惜しさ。おまけに会話しながら食事を用意し、ねぎらい合う楽しいひと時まで奪われていく。きっと、答は自然の中にあるはずだ。それだけはそう思う。
 このことが頭を離れなかった。
 彼が行ったことは、きっと、現地の人たちの励ましになるに違いない。一緒にご飯を作って食べて、笑って、しゃべって、働く人だから。私には何ができるだろうか。
 現場の現状を彼の目で見たことを、私が感じたままに、お伝えしておこうと、パソコンに向かいました。
 熊本災害は終わっていない。

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