学生時代「民俗学研究会」というサークルに所属していた。顧問の五来教授から
「赤飯というのは今みたいにもち米に小豆を入れて炊いたものではなく、もとは赤米といって米自身が赤い色をした古代米があった。今ではすっかり姿うを消したが、どこかで作られているかもしれない」
1970年ごろに聞いて、耳の奥に確かな記憶として残してきた。
私の前に赤米・黒米が姿を現したのは1990年代に入ってからだった。神奈川県相模原市で精米した小袋のものを売っているのを見かけた。
3年程前に岡山に来て総社市の国分寺のあたりで赤い稲穂を見つけ、こうして日本中のどこかで生き残ってきたんだと感動した。
太一やさん夫妻に初めて案内していただいた、総社宮前通り商店街の片隅にある「まちかど郷土館」で、赤米を神にささげるために延々と作り続けてきた村が総社にあることを知った。館の方に質問したが、詳しい資料はなく口承伝承で伝わっているものなのでパンフレットも何もないとのことだった。
本庄村・新庄村合わせて、今では新本村(しんほんむら)と呼ばれている。それぞれに新庄国司神社・本庄国司神社があり、神事にお供えするために古来より特定の田のみで育ててきたものだった。普通の稲と国分寺あたりの普通の赤米、国司神社の赤米のサンプルが置いてあった。新本村の赤米は2メートルを超える大きさに成長したという。現在は少しずつ小さくなっているという。どうしても周りの普通の稲との交配が進むためだとのこと。それでも国司神社の赤米は、古来より肥やしは草のみであり、牛馬を入れず、女の手も借りてこなっかった。同じように古代米を守りつづけてきた地域として、種子島と隠岐島があげられていた。
まずは、近いうちに総社市新本地区を訪れたい。何か情報をお持ちの方、お知らせください!
明日は13時より営業します。
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