2017年1月26日木曜日

縄文の出会いと別れ

 ずっとずっと探していた友人が、ぜひ会いたかった人が亡くなっているのではと言われ、そう思う気持ちもあったため気落ちしていた。一方、だからと言って亡くなったという証拠もなく、探すのをあきらめるかといわれ、気づいたことがある。
 私は縄文人なのだ。死んだら、成仏するとか、しないとかいうのは弥生以降のきわめて、仏教的な観念なのではなかろうかと。
 縄文のあの世は、この世のすぐ近くにあり、死んだらそこに生まれ変わるのである。この世に生まれるというのはあの世を去ることでもある。もうこの世を去っていたら転生してまた会えるように、まだこの世に滞在しているなら再会するために、会いたいと思い続けようと思う。探そうと思う。探し続けていればどこかでまた縁もつながるであろう。
 会いたい理由は人から見たら「なーんだ」と言われるようなこと。一言「会いたかったよ。お疲れさん」と言いたいだけなんだから。
 縄文人の楽観的でハッピーな思考を取り戻そう。

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